全日本同和会は、同和問題の早期完全解決に取り組む団体です。

【東京都連合会】活動報告

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舳松の歴史を学び、人権の未来を考える ―部落差別問題の総合研究所― 舳松人権歴史館探訪記

舳松人権歴史館の見学・研修に訪れた都連役員(写真左より、畠山副会長、古賀会長、田中副会長、千村副会長

厳しい部落差別を物語る資料がなくなってゆく中、資料等を後世に残すことにより部落差別と闘ってきた人々の生きざまと、差別に対する憤りを知ってもらうとともに、部落差別を完全撤廃するという目的と地域の強い要望により設立されたのが、大阪府堺市の「舳松人権歴史館」です。
 部落問題を自分の問題として学び、部落差別の正しい歴史を伝えてゆくと共に、「差別をなくす」「差別をしない」との決意を示す拠点として、歴史資料の調査・収集・保存と研修を行い、その成果を展示公開・情報提供している「部落差別問題の総合研究所」です。

ポルトガルの宣教師「ルイス ・フロイス」が書き本国へ報告した『日本史』において、1569(永禄12)年)の出来事として、堺の被差別民に関する記述があります。
 そこには、畿内(京都に近い、山城・大和・河内・和泉・摂津の五か国)を支配していた三好氏方が罪人を堺の「穢多」に引き渡し、「穢多」たちは、彼を摂津西宮まで連行したという記録があります。この記述では、「穢多」について、「日本でもっとも賤しく、人々から排斥された最下層の民で、死んだ動物の皮を剥ぎ、その皮を売ることを職としている。彼らは、他の人たちと交際するに値しない不浄な人であるかのように、常に村落から離れて住んでいる」と説明されています。この記事から、16世紀中頃に堺に「穢多」と呼ばれた被差別民がいたこと、そして集落があったことが読み取れます。
 一方、1724(享保9)年に作製された「村絵図(一村から数村を単位として作製された絵図)」には、塩穴村(舳松村の前身)が「穢多村」と記載されており、この時代には被差別部落が形成されていたことが分かります(ルイス・フロイスの『日本史』に記述された集落が、塩穴村を指しているのかは、分かっていない)。
 しかし貧しい中にあっても、生活が何とか成り立っていたと思われる記録もありました。皮革生産はその最たるものであり、死んだ牛馬の処理仕事は社会にとって必要不可欠なものでありましたが、動物の死骸が穢れているという「ケガレ」の意識から、穢多身分が差別される原因の一つともなりました。ですが、皮革生産による収入をはじめ、雪駄や草履綱貫(型を取った1枚の牛革の周りに穴をあけ、麻ひもで縫うようにして結わえた靴)作りによる収益、また処刑場関係の仕事などの役人の下働きも行っていたことにより、1582年以降に豊臣秀吉が始めた太閤検地(統一的な方法により、全国規模で行われた日本で最初の土地調査)の際に、年貢(徴税)が免除される「除地」となっていたことも分かっています(以降、江戸時代に入っても塩穴村の除地は続いていた)。
 隣接する堺の町と塩穴村の人口推移を比較した場合、堺の町は1695(元禄8)年には6万3千人の人々が住んでいたがその後人口は減少し、幕末の1859(安政6)年には約3万7千人にまで減少しました。他方、塩穴村は、元禄期1695年の40戸185人から、天保期1840年代には237戸909人へと5倍の自然増加がみられます。これは前述の通り、貧しかったが生活は出来ていた、仕事があった、ということが大きな要因の一つであると考えられています。
 明治期に入り、「賤民廃止令」いわゆる解放令が発令され、封建的身分制による差別を廃止し、国民全てが平等であるとし、これまで激しく厳しく差別を受けていた被差別民も平民とすることとなりました。ですが、政府には積極的に差別を無くすという意図は無く、予算も付けず、この発令を補足する法律も作らなかったため、旧被差別民は次第に困窮していきました。それは、かつての上級武士は政府・地方の役人となり、足軽などの下級武士も反乱などを防ぐために、一部を警察官等に採用したため、それまでの旧被差別民の仕事が取り上げられることとなったことをはじめ、「死牛馬勝手処理令」が出され、死牛馬が無償で払い下げられることもなくなってしまったこと等が原因でした。江戸時代の年貢として物納で納税していた社会から、明治時代になり金銭での納税となり、土地の価格3%をすべての土地所有者から徴収するシステムへと社会構造が変わりました。それまで被差別民が生業としていた死牛馬の処理、それに付随する皮革産業の独占、役人の下請けとなる警察・刑務作業、除地による納税免除の全てが無くなってしまい、旧被差別民は、一層困窮していきました。
 賤民廃止令が出された後も、実際には身分差別が無くならないことに対し、被差別部落内からも運動が起こりました。明治政府の近代化政策により、近代国家として衛生的な生活が推奨され、部落差別が悪化。江戸時代には一緒に暮らさず、人間外の社会で暮らしていましたが、明治時代には貧しさに対する新たな差別、蔑みが生まれ、一部の旧被差別民は部落改善運動へと進み、「差別の原因は自分たちにある。清潔さの欠如が原因だ」「勉強をしていないから差別されるのか、しかし子供も働き手だし、授業料は高くて教育を受けさせることが出来ない」「雇用が無いので生活の規律を保ちづらい」などと、実際は差別の結果であるのに自分たちが悪いと考える人たちがおり、模範青年になろうとして社会運動家の泉野利喜蔵が一誠会という勉強会を組織したりしました。この組織は、後に1922(大正11)年3月3日、「人の世に熱あれ、人間に光あれ」と謳った全国水平社創立に参画、その4ヶ月後の7月には、泉野が中心となり舳松水平社を設立、この地で解放運動の歴史を刻み始めました(明治22年4月に市町村制施行により、塩穴村は大鳥郡舳松村字塩穴となったことから、舳松村として呼称された。また大正14年10月には舳松村が堺市と合併した)。
 社会の一人ひとりがお互いを尊敬し合う、お互いを尊重し合い、そのような人達で満ち溢れた社会を作れば差別が無くなるということに気がついてゆく。水平社宣言とは、すべての人が自らの差別意識から解放されて、本当の自分を取り戻すことによって、人と人とが尊敬し合う社会、お互いを認め合う社会が生まれれば、部落差別はもちろん無くなるし、他のいろいろな差別問題も無くなる、という意味で部落問題だけに特化したものではなく、差別が無くなることで皆が生き生きとした社会が生まれるという意味での人権宣言なのです。  戦後も舳松では住民が団結し、まちづくり協議会を作り、不良住宅問題を解消するなど地域で団結し人権に根ざした生活を守っています。

 舳松人権歴史館は、「同和対策事業の進捗は、一定の成果をみたものの、厳しい部落差別を物語る住居をはじめとする資料が少なくなってきた。また、これらの資料を後世に残すことにより、部落差別と闘ってきた自分たちの生きざまや差別に対する憤りを知ってもらい、一日でも早い同和問題の解決に向けたい」という地元の声があり、1988(昭和63)年4月に『舳松歴史資料館』として誕生しました。
 2006(平成18)年4月、堺の被差別部落の歴史を通じて、部落差別を自分の問題として学び、「差別をなくそう」「自分は差別しない」と決意するための施設として展示物を一新し、『舳松人権歴史館』と名称も改めて、リニューアルオープンしました。舳松という名称は、水平社創立時の地名に因んでいます。2015(平成27)年4月、現在地である「堺市立人権ふれあいセンター」1階に移設、ホール設備や学習室、運動設備などを兼ね備えた市民複合交流施設の一角として、運営されています。
 舳松人権歴史館には、年間約3万人(2023年)が来館し、そのうち一割が団体での見学で、近畿2府4県をはじめ、中部地域、四国地域、山陰地域や九州など、中日本〜西日本の広域から訪れています。特に、行政や企業の研修、地方自治体の教育機関、小・中学生の社会科見学など、来館者は多岐に亘ります。最近では外国人の来館者も少しずつ増え、海外においても「人権=部落差別撤廃」の認識が広がりを見せているとのことです。
 今回、古賀都連会長は、畠山副会長、千村副会長、田中副会長、舩渡常任理事とともに当地を研修・見学に訪れました。
 見学に先立ち、ガイダンスルームにて約1時間の研修を受けました。舳松の歴史や文化を通じて、部落問題を考えてゆくことを主眼に、講義をして頂きました。
 「舳松」の名前の由来や、村絵図・人口推移統計資料などを用いて部落問題について詳しい解説がなされるとともに、実物の綱貫や雪駄に触れたりして、舳松の部落差別の実態について学びました。
 人権歴史館は、「人権資料 ・図書室」「特別展示室」「阪田三吉記念室」「くらし ・ 仕事・歴史・啓発・教育の展示をしているフロア」の、大きく4つのエリアで構成されています。
 「人権資料・図書室」は、同和問題をはじめ、あらゆる人権問題の速やかな解決のため関係資料を収集、市内各図書館とのネットワーク等を活用し、市民に情報提供を行っています。
 「特別展示室」では、毎年企画展を実施しており、訪問した際は「人権の視点から変わる履歴書〜部落差別と人権意識の今を考える」と題した企画展が実施されていました。1975(昭和50)年11月、全国の被差別部落の地名や戸数、主な職業などが記載された「部落地名総鑑」の存在が発覚し、大きな社会問題となりました。この差別事件発生の背景には、1872(明治5)年に作成された壬申戸籍の閲覧が全面禁止(1968(昭和43)年)となったことや、全国高等学校統一応募用紙が策定(1973(昭和48)年)されたことが影響したとされています。匿名の投書により、企業や大学などが「部落地名総鑑」を購入していたことが明らかとなりました。入学や就職、結婚の際に、相手の出身地や親などの職業を調べるなどの不当な調査を無くすため、以降、購入した企業の多くが採用での差別規定の見直しを図るとともに、社内研修や人権教育の推進を取り組むきっかけとなりました。
 企画展は毎年行われており、2022年度は「時のながれを未来につむぐ〜地図や写真で見る舳松のいま・むかし〜」、2021年度は「舳松人権歴史館収蔵品展〜国絵図を中心として〜」、2020年度は「村絵図からみる塩穴村の歴史」など、どれもとても興味深い内容の企画展が実施されています。
 「阪田三吉記念室」は、舳松出身の将棋名人「阪田三吉」を紹介するコーナーですが、今回は本紙と主旨が違うのでここでは触れないこととします。  メインフロアにある展示「歴史」では、16世紀後半、ポルトガルの宣教師「ルイス・フロイス」が記述した堺の被差別部落や、舳松の歴史が絵図の展示を交えて説明されています。そして部落解放運動のコーナーでは、泉野利喜蔵が一誠会を結成し、水平社運動に参画し、後に舳松水平社を創立した活動が紹介されています。
 「教育」では、舳松地域にあるこども園や小学校、中学校のあゆみが展示されています。
 「しごと」では、下駄直しや屠畜、屑物行商などの紹介の他、人々が不安定な仕事から専門的な技術を磨き、社会に貢献してきたことが紹介されています。
「くらし」では、同和対策が行われる前の舳松の劣悪な住環境を再現したセットがあり、当時の暮らしぶりが再現されています。同和対策事業が行われる以前の舳松の住宅は、古い家を取り壊した際の古い木材で建てられることが多く、家というより小屋、あばら屋というものでした。間取りも四畳半一間か六畳一間がほとんどで、そこに家族5、6人が暮らしていました。雨漏りがひどく、炊事は軒下、井戸や便所も共同であり、不衛生な環境下にありました。
 「啓発」では、堺市人権意識調査結果のパネルや、情報検索装置をとおして、差別の現状と人権の尊さについて学習出来ます。

 国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の三つを基本理念としている日本国憲法では、第14条において「すべての国民は、法の下に平等であり、人種、信条、性別、社会的門地により、政治的・経済的又は社会的関係において、差別されない」と定められています。ですが、2002(平成14)年3月末、政府は同和対策に一定の成果が認められたため、以降は一般対策として取り扱うとし、同和対策関連の特別措置法を失効させました。これにより、世間に同和問題は解決したとか、同和問題は無かった、などと誤った認識を植え付けてしまいました。加えて、インターネットやSNSの普及により、新たな差別の「やり方」が発生したことなどを受けて、2016(平成28)年に「部落差別の解消の推進に関する法律」が制定・施行されました。ですがその内容は、相談体制の拡充や、地方自治体による実態調査及び条例の制定などで、差別行為に対する罰則規定は無く、部落差別完全解決実現に向けては不十分な内容であるように思われます。今回の取材の最後に、舳松人権歴史館の大原和子総括から、「東京あけぼの」の読者へ向けて次の一言メッセージを頂きました。『「かかわらなければ」何もしらない。何もかわらない。「かかわる」ことで真実がみえてくる。「無関心」「無知」は「差別」することと同じです。』
 この言葉通り、まず同和問題、そして歴史的背景を知ることで、真実が見えてきます。そのためにはしっかりとした教育、啓発が重要です。人権問題は、とかく面倒だとかネガティブだと揶揄されることが多いですが、舳松人権歴史館の見学を通して、まさに「舳松の歴史を学び、人権の未来を考える」と決意させられました。見学した古賀都連会長も、「研修会や勉強会の座学も大事だが、講師の方の説明を受けながら、歴史的に貴重な資料を見ることも重要な勉強。今後も施設見学を行いたい」と、今回の訪問で得られたことを総括しました。堺市が掲げる「守ろう人権 許すな差別」が、全国自治体に波及することが望まれます。
(本文中には、舳松人権歴史館研修資料、及び関連資料を引用している箇所があります)

「舳松人権歴史館」のある、堺市立人権ふれあいセンター

舳松人権歴史館

入口に掲げられているプレート。舳松人権歴史館の信条が伝わってくる

ガイダンスルームにて研修を受ける都連役員

人権ふれあいセンター1階にある「水平社宣言」のレリーフ

人権資料・図書室を見学する都連役員

人権関連図書だけでも相当の所蔵がある

館内のパネル展示を見学する古賀会長